共時態
“Synchlonie”(サンクロニー、又は、シンクロニー)、及び“Idiosynchlonie”(イデォサンクロニー、又は、イディオシンクロニー)。
現在のところ、「ある言語、あるいは記号体系の、ある時点での在り方(様態)」を指すものとして用いられることが多い。しかし、現在のソシュール研究では別の理解が主流説として唱えられている(後述)。
日本語では「サンクロニック、シンクロニック(共時的)」の語形で用いられる頻度も高いかもしれない(例えば「サンクロニックな様態」といった用法)。
「イディオサンクロニー」を強いて日本語で用いる場合は、通例「特定共時態」の訳語が用いられる。
「共時態と特定共時態の関係」は、「ラング(一般言語)と諸言語の関係」にほぼ等しいとみていい。
日本語では、「共時態」と言って、「サンクロニー」と「イディオサンクロニー」の両方をカバーして指すことの方が多いようだ。2つの用語を区別して用いるのは、よほど細かな議論か、言語学の専門的な議論の時と思われる。
例えば「現代日本語の共時態」と言えば、実質、現代日本語のイディオサンクロニーを言ってることになる。
基本前提
「共時態」の概念は「通時態」の概念と対にして理解するとつかみ易い。
ソシュールは、『一般言語学講義』で、概ね次のような比喩を用いて通時態と共時態を説明している。
「(言語の)通時態が、植物の構造を縦方向に把握した理解だとすると、共時態とは、横断面で、ある言語の在り方を整理した様態にあたる」
「ラング」が言語学の基礎研究のための方法概念(モデル概念)であるのと同様、共時態もモデル概念だ、と考えられている。
ソシュールは、言語の共時態研究を「静態(論的)研究」、通時態研究を「動態(論的)研究」とも呼び、「静態研究(共時態の研究)は、動態研究(通時態の研究)より優先されるべき」と唱えた。
機能主義的学説
1930年代にフランスの言語学会で確立されたとされる言語学学説では、共時態は次のように理解された。
言語の実態は、無数の言語使用(パロール)の影響で、刻一刻変化している。
ある言語の共時態は、その言語の構造様態を、必要に応じた時間幅の内で考察、整理し把握するモデルになる。
つまり、共時態の内では、言語使用の微細なバリエーションは、構造の揺らぎとして近似される。
この解釈はかなり広い影響力を示し、日本では、現在でもこのように唱えられることはある。
この学説は、「諸言語は、それぞれの母語共同体で共有される習慣的な制度だ」とする立場との結びつきが強い。例えば、フランスの言語学者アントワーヌ・メイエなどが唱えたとされる。
「ラングとは社会的事実だ、と唱えた」『講義』の記述に対応している。
言語学を含みながら広い範囲でやりとりされた言語思想を巡る現代的な議論では、しばしばこの立場は否定的なニュアンスを込めて機能主義的学説、又は、静態論的学説と呼ばれる。
動態論的学説
ソシュールの草稿、生前の講義で採られた講義録などの研究から、導かれた学説では、主流的な説として共時態は次のように理解されてきている。
ある言語の語る主体は、普通は、言語のルール系が社会的に共有されているとの信憑を、意識するしないに関わらず、前提としてパロールを取り交わす。この時、語る主体の意識が通例想定しているルール系を言語の共時態と呼ぶ。
この学説は、講義では、わずかな言及しか無い「語る主体」の概念を、ソシュール思想の焦点に据えた解釈から導き出された理解になっている。
「解釈」と言っても、必ずしも恣意的な理解ではなく、生前3回おこなわれた講義の内容を順次再構成することで、ソシュール思想の段階的な進歩を後付けるような研究成果に基づいている。
普通、疑問に思われるだろうことは、それでは、なぜ『講義』では「語る主体」の概念が目立たないようにしか記されていないか? だろう。
この件については、例えば言語学者の立川健二氏は、「ラングを社会的事実として把握することで学問的分析対象を整理しようとしたソシュールが、言語を主観主義的な心理現象とみなす立場を排除しようとした」のだろう、との主旨の推論を述べている。
あるいは、「言語学を科学的な形式に整えようとした時流の影響」などとみなす意見を聞くこともある。
関連人物や用語
関連用語
- ラング
- 諸言語に共通して言えるルール系の在り方。
- 通時態
- 諸言語の構造様態が変化する、体系的な変化の仕方。動態的な言語構造。
- パロール
- (ある言語の)個別の言語使用。
- 語る主体
- ある言語を母語習得した任意の話者、といった概念。
メモ
- あるいは「サンクロニック」の語形は、和製のカタカナ語かもしれないが、未確認。
- ソシュール以降の言語学者の間には、「共時態/通時態」の概念区別への批判が少なくなかったようだ。例えばヤーコブソンも批判的だった。しかし、現在、普通はこのタイプの批判は、共時態も通時態も研究のためのモデル概念だ、と言うことを見落としていたために生じた批判だった、とされることが多い。
- 言語学者の立川健二氏は、ソシュールが「共時態」で言わんとしていた「共時」とは、「任意の話者が意識せずに前提にせざるを得ない主観的な現在のイメージ(語る主体にとっての主観的同時性)」だった、との立場を採っている。
立川健二、他,『現代言語論』,新曜社,Tokyo,1990.他) - 社会言語学者の田中克彦氏も、立川健二氏とほぼ同趣旨と思える指摘をしている。
「人々は自分が生まれる前から皆が話してきた、いわば生まれるとともにさずかり身についたことばを自分が生まれる前から変わらぬものとして、ひたすら話している−−と思っている。この思っている意識の状態をソシュールはサンクロニー(共時態)と呼んだのである」
田中克彦,『ことばとは何か』(ちくま新書),筑摩書房,Tokyo,2004.