ロラン・バルト
ロラン・バルト(Roland Barthes)
フランスの社会学者、記号学者。文芸批評家でもある、日本では、思想家と呼ばれることも。記号論の研究家で、1960年代頃から(60年代半ば頃から、とも)、テクスト論と記号論に新しい領域を開いていった。1915年〜1980年。
ソルボンヌでギリシア悲劇を中心に古典学を学んだ後、結核のために長期療養生活を送った。
国立高等研究院の、経済・社会科学部門の研究主任を経て、同研究院の「記号・象徴・表象の社会学」の研究指導教授に。さらに後、コレージュ・ド・フランスの「文学記号学」教授に。
特に、「個人的な文体」とも「ロマネスクなスタイル(文体)」とも言われる後期著作の多くを、批評文芸としても楽しむファンは少なく無い。
初期のバルトは、いわゆる構造主義の代表的な論者の1人とみなされ、日本でもそのように紹介された時期もあった。ちなみに、バルト自身は、流行語のように広まった「構造主義」の論者とみなされることを、かなり嫌っていた。
初期バルトは、例えばラシーヌの作品の物語構造を分析(『ラシーヌ論』1963)してみせたり、歴史家ジュール・ミシュレの著作から神話作用(社会の内で政治イデオロギー動揺に作用する文化の影響力)を抽出したり(『ミシュレ』1954)していた。
しかし、やがて、ソシュール的な言語記号論を発展させ、広告コピーや、写真、映画などに拡大適用。記号論を、言語記号論から文化記号論に広げ(『モードの体系』1967、他)、テクスト論では、言語活動が時として示す意味形成性(記号作用)の探求に向かった(『テクストの快楽』1973、『文学の記号学』1978、他)。
「バルトの影響を受け、ポスト構造主義者たちはテクストという言葉を使うようになった」と、すら言われることもある(『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』,1995,松柏社,1998)。
バルトは、著作を通じて、初期の構造主義を積極的に発展させ、現代的な記号論、テクスト論の分野を切り開いた形になるだろう。バルトの研究者によれば、構造主義(初期構造主義)に対する諸批判を、既に先取りして検討したような著作のモティーフは、初期の『零度のエクリチュール』(1953)や『ミシュレ』の内に読み取れる、とも言われている。
- ロラン・バルトの肖像写真(Wikimedia Commons)
ロラン・バルトの肖像写真
メモ
- 1915年、フランス北西部、シェルブールで生まれる。誕生後、間もなくフランス南西部のバイヨンヌに転居。
- 1916年、海軍中尉だった父親戦死。
バルトは、あまり頑健ではなかったこともあり、母親への親密な情を生涯抱き続けたようだ。本人のエッセイ類などからもうかがわれるし、同性愛者だったバルトの性格との関係も、いろいろ考えさせる。
後に、母は再婚し、バルトは父親違いの弟も得た。 - 1924年、パリに転居。
- 1934年、前年(33年)ドイツ帝国でヒトラーが総督に。バルトは、反ファシズム・グループの結成に協力。
5月、肺結核の最初の発症(吐血)、しばらく療養生活に。すでにバカロレア(大学入学資格試験)には合格していて、ソルボンヌを選択。実は、高等師範学校を志望していたらしい。 - 1937年、肺結核のため、兵役免除に。
- 1939年、ナチ・ドイツのポーランド侵攻。英、仏、ドイツに宣戦布告。
10月、バルト、バイヨンヌ近くの町の非常勤講師に任命される。 - 1940年、フランス、ナチ・ドイツに敗戦し、ヴィシー政権成立。
バルト一家はパリに戻る。バルト自身は、高等中学2校の生徒監督に任命された。 - 1941年、肺結核再発。
- 1942年、療養生活。この年から、著作の公表がはじまる。
- 1943年、肺結核再発。再度、療養生活に。
- 1944年、パリ解放。
- 1947年、作家カミュが関与していた新聞(コンパ)に「零度のエクリチュール」を執筆。
- 1948年、ブカレスト(ルーマニア)のフランス学院に図書館員として赴任。
- 1949年、アレクサンドリア(エジプト)に外国人講師として赴任。
アレクサンドリアで、言語学者のグレマスと知り合う。グレマスの勧めでヤーコブソンの著作とソシュールの『一般言語学講義』を読み始める。 - 1950年、パリに戻り、外務省の文化交流総務局に勤務。
- 1952年、国立科学研究センターの研究員に。語彙論の研究に専念。
- 1953年、『零度のエクリチュール』刊行、処女単行本になる。
- 1954年、『ミシュレ』刊行。
- 1955年、ミッシェル・フーコーと交友を持つ。
- 1957年、『神話作用』刊行。
この頃からフランスの複数の大学で社会学の講座が開かれるようになり、社会学の学位が制度化される。 - 1960年、国立高等研究員の「経済・社会科学部門」研究主任に。「コミュニカシオン」誌の編集委員の1人に。
この年、雑誌「テル・ケル」が創刊されている。 - 1962年、国立高等研究院の「記号、象徴、表象の社会学」研究指導教授に。
- 1963年、作家のソレルスと親交を得る。
この頃、バルトとフーコーが不仲になったことが、両者の知人、友人たちに知れ渡っていく。 - 1964年、「テル・ケル」で「文学と記号作用」を発表(「テル・ケル」への最初の執筆)。
ソレルスが主幹だったテル・ケル叢書から『エッセ・クリティーク』刊行。 - 1965年、『記号学の原理』刊行。
この年「生まれつつある構造主義の怪物」を批判する『<新しい批評>か新手の詐欺か?』(レーモン・ピカール)が公刊され、バルトも公の論戦に巻き込まれていく。
民族学の分野ではすでに構造主義(機能構造主義)は成立していたが、他の分野での展開については「構造主義」は、当初、蔑称のようにして用いられたのだった。
この年、ブルガリアから留学してきたクリステヴァが、国立高等研究院でバルトが担当していたセミナーにはじめて参加している。 - 1966年、『批評と真実』刊行。前年の『<新しい批評>か新手の詐欺か?』の批評に対応した内容。
- 1967年、『モードの体系』刊行。
- 1968年、5月のパリ騒乱の時、バルトは52歳だった。バルトは、騒乱について、控えめだが否定的な対応を示していた、と評されている。
- 1970年、『S/Z』刊行。
- 1973年、『テクストの快楽』刊行。
- 1975年、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』刊行。
- 1976年、コレージュ・ド・フランスに新設された「文学記号学」の正教授に。この選出には、フーコーの推薦があった。
- 1977年、『恋愛のディスクール・断章』刊行。
- 1980年、交通事故にあい、入院。その後、肺結核が原因と伝えられている呼吸不全を併発し死没。この年刊行された『明るい部屋』が、最後の刊本になる。遺稿は、ミラノのスタンダール学会で発表する予定だった「人はつねに愛するものについて語りそこなう」で、脱稿していた。
- 「バルトの影響を受け、ポスト構造主義者たちはテクストという言葉を使うようになった」(『コロンビア大学 現代文学・文化批評用語辞典』,1995,松柏社,1998)は、さすがに用語辞典らしい慎重な書きっぷりだ。
バルトも雑誌「テル・ケル」の常連執筆者の1人だった。「テクスト」も、テル・ケル誌上で、誰からともなく使われはじめた、といった事情もあったかもしれない。少なくとも、クリステヴァやクリステヴァを介したラカンとの相互影響は認められている。
ともあれ、バルトのテクスト論も、1960年代に現代的な言語論に大きな影響を及ぼした、という事は言えるだろう。