小阪修平

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小阪 修平

文筆家。1947年〜2007年。

「評論家」の肩書きで呼ばれることが多いが、社会評論などを著す他、西欧哲学、現代思想の解説紹介本も数冊ある。自称「(哲学的思想の)紹介屋」とも。「思想家」、「哲学者」あるいは「在野の哲学者」などと呼ぶ人もいる。

駿台予備校では、1990年に論文科が創設されて以来、非常勤で講師を勤めていた。小論文書き方本も数冊ある。

他に、ムック的な評論集の編纂にも実績が多い。2、3冊だが文芸批評の単行本もある。


東京大学在籍中に全共闘活動に関わる。1970年大学中退。 当時の言い方でルンプロ(ルンペン・プロリアート)生活を5年ほどおくる。つまり、フリー・アルバイターで食いつないでいた。後、塾講師などを勤めるようになった。

1979年から文筆業も。主に雑誌「宝島」「第三文明」「流動」などに執筆。評論同人誌の発行もおこなう。この頃から、評論集の企画、編纂も。

1986年から発行された評論誌「オルガン」(現代書館)では、代表編集人だった(1991年に10号で休刊)。

1984年に、ひさうち みちお氏のイラストで刊行された『イラスト西洋哲学史』(JICC出版局)は、タイミングがニュー・アカデミズムブームの早い時期でもあって、話題になった。その後、現代思想の解説、紹介本を数冊編著して刊行。いずれも読み易さ、わかり易さには定評がある。

1994年、『コンテンポラリー・ファイル 醒めない夢の時代を読む』(彩流社)刊行。この本は、小阪の社会評論のはじめての単行本。この後、数年に1度のペースで数冊の社会評論を著す。

文芸批評の単行本としては『非在の海 三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム』(河出書房新社)と、Geibun Library『ことばの行方・終末をめぐる思想 小説のことばから現代を読む』(芸文社)がある。 また、増進会出版社からZ会ペブル選書の1冊として刊行された『日曜日の図書館』は、小阪監修で編まれた、読書ガイド文集。主旨としては受験生を想定したブックガイド集。
小阪本人は「自分を発見するための本」のタイトルで、文芸書と広い意味での思想書(恋愛論や精神分析)とを取り混ぜて紹介している。21頁ほどの文章だが、平易で語りかけるような文章が、小阪らしい。


「思想家」としての小阪は社会評論の著作や、思想紹介、解説書からうかがうことができるだろう。

独自の哲学思想を主題的に記した本としては『自分という「もんだい」 “私”と“世界”をめぐる哲学ノート』(大和書房)がある。

「哲学者」としての小阪の仕事は、個人著作からはうかがいづらい。 むしろ、思想、哲学的な評論集(アンソロジー)に採録されている作品の内に、思想家=哲学者らしい文章を読むこともできる。 ちなみに、生前の小阪は何度か「制度論」という主題について、まとまった本を構想している、あるいは原稿を書いている、うまく書けない、などなどと対談で語ったり、著作の内に記したりしていた。

関連人物や用語

関連人物

用語

哲学と思想
「なぜ現代に大きな影響をあたえている哲学や思想を現代思想とよぶのだろうか。
もちろん現代哲学という呼び方もある。だがその範囲は現象学や分析哲学などであり、現代思想と呼ばれるものよりも狭い範囲のものになる。現代思想のなかでも比較的哲学の厳密さを受け継ごうとしているものを現代哲学と呼ぶと言えばわかりやすい」
(小阪修平,図解雑学『現代思想』,ナツメ社,Tokyo,2004.p.16)

メモ

  • 1947年、岡山県生まれ。
    「九州福岡でだいたい育つ」(小阪、他,『イラスト西欧哲学史』著者紹介)
  • 1966年、東京大学に入学し上京。
  • 1968年、小阪が明治大学の演劇サークルに関わってた頃、全共闘運動がはじまる。この年の内に芝居を止めた小阪は、東大の全共闘運動に関わっていった。
    「ぼくは、全共闘を先頭で闘っていたわけではない。少し斜に構えてつきあったわけだ」(小阪修平,『思想としての全共闘世代』)
    この年5月パリでは大規模な騒乱があった。
  • 1969年、1月18日〜19日、東大安田講堂での立て籠もり抗議に機動隊導入。
    「安田講堂攻防戦は個別の大学での全共闘運動が党派によって領導される政治闘争に呑み込まれていく転回をも象徴していたのである」(小阪,前掲)
    5月、東大全共闘のあるグループに招かれた三島由紀夫が討論のために東大を訪れる。小阪もこの討論会に参加。(この討論会の記録は、後に新潮社から刊行され、角川文庫で再刊された)
  • 1970年東京大学中退。
    以降、5年ほどフリー・アルバイターで食いつなぐ(当時の言い方でルンプロ、つまりルンペン・プロリアート)。
  • 1975年頃から、塾講師などを勤めはじめる。
  • 1979年〜1980年頃、この頃から文筆業も。主に雑誌「宝島」「第三文明」「流動」などに執筆。
    この頃、評論同人誌「ことがら」を発行。
    「八〇年代をぼくは塾の講師や家庭教師をしながら。雑誌やシリーズ企画を編集するというポジションで過ごした」(小阪,前掲)
  • 1979年。雑誌「第三文明」12月号での座談会「マルクスを葬送する」をきっかけに、笠井潔戸田徹らと共に、「マルクス葬送派」と呼ばれるようになる。
    「当時のぼくの問題意識は、マルクス主義がこれまでの問題−−スターリニズム国家の現実から連合赤軍まで−−をほおかむりして通り過ぎる(隠蔽する)ことへの批判であった。当時はすでに七〇年代の『左翼的』気分は拡散しはじめていたが、まだ『正しいマルクス』探しが残っていた頃である」(小阪,前掲)
  • 1984年、イラスト、ひさうち みちおで『イラスト西洋哲学史』(JICC出版局)刊行。
  • 1985年、小浜逸郎と協同で評論集『家族の時代』(五月社,フィールドワーク・シリーズ)を編纂。
  • 1986年から発行された評論誌「オルガン」(現代書館)では、代表編集人だった(1991年、10号で休刊)。
    この頃、ジャーナリスト専門学校の講師もしていたそうだ。おそらく小論文作法の類も講じていたようだ。
    「ぼくは今ジャーナリスト専門学校というところで教えているんです。そこで『現代社会にリアリティはあるか』と言うレポートを出させたんです〔後略〕」(小阪修平、見田宗介,『現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』)
  • 1990年、駿台予備校に創設された論文科で、小論文の非常勤講師を勤めるようになる。
  • 1991年、1月〜2月、湾岸戦争。
    12月、ソヴィエト連邦崩壊。
  • 1994年、『コンテンポラリー・ファイル 醒めない夢の時代を読む』(彩流社)刊行。
  • 2007年8月、心不全で死没。
  • ソース:
    小阪修平,『思想としての全共闘世代』
    小阪修平、見田宗介,『現代社会批判 <市民社会>の彼方へ』
    、他

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