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フランス語表記で“discours”。
 
フランス語表記で“discours”。
  

2017年4月16日 (日) 04:29時点における最新版

フランス語表記で“discours”。

哲学用語と言われ、実際、現代思想で重視されるが、政治学や思想史などの分野でも用いられる。

思想用語としては、記号学、社会批評、コミュニケーション研究、言語思想、及び、批評文芸で用いられる。

日本語では「言説」と訳されることが多い。

コミュニケーション研究などで用いられる談話分析では「談話」と訳される事もある。

フランス語原義

フランス語の原義は、演説、論述、議論、ディベート、言葉を用いたやりとり、といった意味。また、「物事や考えを言葉で説明すること」、あるいは、「(そのように言葉で)説明される文章あるいは、論説、演説」などの意味でもある。

書き言葉、話言葉を問わずに用いられる。

ラテン語の“discursus”が語源。“discursus”は、やりとり、行き来(するコミュニケーション)、と言った意味。

思想用語

政治学や関連分野では、「ある立場から傾向をもって組織化された説」といった意味に用いられる。また、「特定の組織化された思想(政治信条なりなんなり)を踏まえた説」にも用いられる。

ことに、説明の前提になる政治信条などが異なり、結果として同じ出来事についての評価が異なる諸説を「ディスクール」と呼んだりする。

例えば、ある反政府武装活動が、ある立場からは「解放闘争」と説明されるが、別の立場からは「テロ活動」と説明される時、説明のそれぞれが「ディスクール」と呼ばれる。あるいは、説明の前提に特有の考え方が認められる場合は、そちらも「ディスクール」になる。

ある立場からなされるディスクールは、特定の傾向をもって語彙を選好し、文脈の内で意味を限定化する。選好の基準は、ある立場が基本前提として重視している思想、あるいは、政治観、政治信条などである。

しばしば「真偽の定かでない説」あるいは、「真偽の判断を保留して」、といった含意を伴って「ディスクール」の語が用いられることがある。例えば、ある言説を「イデオロギー」と呼ぶと「現実離れした建前論」とか「偏向した意見」といった否定的ニュアンスが付着し易いので、「ディスクール」を用いるようなことは少なく無い。


フランスの現代思想では、ロラン・バルトの用法と、ミッシェル・フーコーの用法が有名。

バルトは、その言語論で、「ディスクール」をしばしば「エクリチュール」と併用するように用い、どちらも「ある特定の時代に、ある特定の社会集団に特徴的な言い回し」といった意味で用いた。例えば「フランス革命期のエクリチュール」とか「インテリのディスクール」といった具合だ。

バルトの場合、「ディスクール」や「エクリチュール」は、「人々の私的生活と公共圏との間で流通するような“言い回し”」といった意味で用いられた。

フーコーは、彼が提唱した「知の考古学」という思想分析の手法で、「ディスクール」を、「ある時代に特徴的な世界像や認識前提に拘束された諸説」といった意味合いで用いた。「知の考古学」の「ディスクール」は、抽象概念にも及んでいて、同類の認識前提に拘束されている、とみなされる諸説を「同一のディスクール属す」といった用法でも用いる。

フーコーの「知の考古学」は、広い意味での社会史に隣接するような研究分野の用語なので、特殊な分野での用法になっている。ただ、『知の考古学』を始め、フーコーはその著作を通じて「情緒的な暗黙前提と異なり、偏向が少ないと思われがちな理知的諸説も、実は、暗黙前提された世界像の拘束を被る」という事情を示した。この事から、「暗黙の前提に拘束された諸説」といった含意を踏まえて「ディスクール」が転用されることはある。

例えば、フェミニズム思想で、「男性優位の世界像を暗黙の前提にした諸説」を、「男性優位主義のディスクール」と呼んだりもする。

比較すると、バルトの用法の方が、広い範囲に楽に応用できる用法と思える。

メモ

  • 原義から考えると、「ディスクール」と「エクリチュール」の含意の差としては、エクリチュールが書き言葉限定で、ディスクールが、書き言葉、話し言葉を問わない他に、「談話やディベートのようなコミュニケーションでやりとりされるかどうか」を連想させはするだろう。あるいは「やりとりを想定した説」といった含意での使用も見かける。
    「組織化されているかいないか(組織化された前提を背景に潜めているかいないか)」と言った含意の方は、原義からは少し遠い連想かもしれない(?)。
  • フーコーのディスクール
    フーコーの著作では、「ディスクール」は、「エピステーメー」(ある時代に特徴的な世界像や認識前提)、「エノンセ」(ディスクールを構成するかもしれない断片的な記述や表明)、と、関係付けられて用いられた。いずれの用語も、方法論としての「知の考古学」の基本用語として用いられる。
    フーコーの「エピステーメー」は、用法が一人歩きして広まってしまったパラダイムに意味は近い。「エノンセ」の方は日本語では「言表」の訳語をあてられることが多い。こちらは「ディスクールを構成するかもしれない断片的なコメントで、ディスクールまできちんと構成されていないもの」といったニュアンスで解していくと、論旨を外しはしないだろう。
    ただし、「知の考古学」は、ある時代のエピステーメーを推定復元する方法論として提唱されている。従って「ディスクール」や「エノンセ」は、「(過去の)エピステーメーを推定復元するための材料」になり、「(過去の)エピステーメーの痕跡だ」とも言われる。

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