フェルディナン・ド・ソシュール
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フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)
スイスの言語学者。1857年〜1913年。
言語研究の基礎論『一般言語学講義』で知られるが、言語学者としての経歴は、歴史言語学の分野から始めていた。
『一般言語学講義』は、ソシュール後半生の研究成果に基づく。ただし、現在の研究では、ソシュール自身は、必ずしも『一般言語学講義』にまとめられた理論を完成したものとは評価していなかった、と解されている。
- ソシュールの肖像写真(Wikimedia Commons)
ソシュールの肖像写真
関連人物や用語
関連人物
- ソシュール家
- ソシュールの祖先は、17世紀にフランスから亡命してきた新教徒だった。ソシュールの母語はフランス語だった。
- アドルフ・ピクテ
- スイス人の歴史言語学者で『印欧語の起原』を著した。学者を多く出した家系だったソシュール家は、ピクテと親交があった。まだ幼かったソシュールは、ピクテを尊敬し、影響を受けたと、本人の回想録に記されている。
ソシュールは、14歳の時に、印欧祖語に関する論文を書き、ピクテに批評を求めた。 - アントワーヌ・メイエ
- ソシュールが、パリの高等研究学院で言語学を講じていた時期の受講生の1人。ソシュールが、スイスに帰国した後、高等研究学院で言語学の後任になった。
- セルゲイ・カルツェフスキー
- 1884年にシベリアで生まれたロシア人。1906年、政治活動を理由に投獄されたが、1907年、ジュネーブに亡命。ジューネブ大学でソシュールの講義を受講。シャルル・バイイ、アルベール・セシュエの講義も受講した。ソシュールの死の翌年(1914年)文学士としてジュネーブ大学を卒業。1917年、第1次世界大戦の終結後、帰国。モスクワでソシュールの言語論を紹介した、と目されている。1926年、プラハ言語学サークルの創設に参与。第2次世界大戦後、ジュネーブに移住。大学でロシア語を講じる傍ら、バイイ、セシュエらと共にジュネーブ言語学会を設立。副会長を勤めた。1955年、ジュネーブで没。
- シャルル・バイイ
- 1865年、ジュネーブ生まれ。ベルリンで学位を取得した後、高校でギリシア語を教諭。1893年から、私講師としてジュネーブ大学にも勤務。ソシュールの弟子と言われるが、むしろソシュールよりも若い大学の同僚と言った関係だった。ソシュールの死後、ジューネブ大学で、一般言語学担当教授の後任となった。アルベール・セシュエと共に『一般言語学講義』を編纂し公刊。1947年没。
- アルベール・セシュエ
- 1870年、ジュネーブ生まれ。ジュネーブ大学とゲッティンゲン大学で学び、1902年からジュネーブ大学に私講師として勤務。ソシュールの死後、シャルル・バイイと共に『一般言語学講義』を編纂し公刊。1929年、ジュネーブ大学で文法理論、文体論担当の非専任教授に。1938年、一般言語学専任教授に。1946年没。
ソシュールの用語
- 一般言語学
- 『一般言語学講義』で、言語学研究の基礎分野として提唱された。「諸言語に共通するルール系としての言語(ラング)の、社会的な同時性を前提にした様態(在り方)、共時態を研究する」分野として提唱された。
- ラング
- 諸言語に共通して言えるルール系としての特徴。ラングは、言語研究の必要から仮構される理論上のモデル概念(方法概念)だ。
- パロール
- 諸言語における、個別の言語使用を指す。ラングが方法概念であるのに対し、諸言語の実態は、無数のパロールの総体だ。
- 共時態/通時態
- 共時態とは、社会的事実としての言語に見られるルール系としての在り方(様態)であり、通時態とは共時態の変化の仕方を意味する。ただし、共時態/通時態の理解については、語る主体との関係で議論もある。
- ソシュールは、言語の共時態研究を「静態(論的)研究」、通時態研究を「動態(論的)研究」とも呼び、「静態研究(共時態の研究)は、動態研究(通時態の研究)より優先されるべき」と唱えた。
- 差異の体系
- ラングの共時態としての特徴は、「言語記号の体系」であり、言語記号の特徴は「積極的な項ではない」事だ、と言うのがソシュールの主張だった。
例えば、言語Aでは、[r]の音と[l]の音が弁別的に認知されるが、[b]の音と[v]の音は弁別認知されない。この言語では、[b]の音と[v]の音の物理音としての相違は価値を示さない(音価が等しい)。同様に、[r]の音と[l]の音も、物理的相違に価値があるのでは無い。例えば、どのようなトーンで出されても[r]の音は/r/の音、[l]の音は/l/の音と認知される(弁別される)。
これが「積極的な項を持たない」という、言語記号の特徴だ。つまり、言語Aでは、[r]と[l]の実体的な相違(物理音としての相違)に基づいて弁別が成されるのではなく、逆に認知上差異が認められるから(有徴的だから)記号としての価値が生じる。言語Aでは[v]と[b]が有徴的ではないのに、別の言語Bでは有徴的だ、ということも起きるのもこのためだ。
個別の諸言語では、どのような差異が有徴的な価値を生じさせるかは、それぞれに異なる。又、ある言語系統で、通時的に(歴史的に)言語記号の有徴的弁別認知が変化することもある。しかし、それぞれの在り方で、有徴的差異に基づいた弁別をしているのが、あらゆる言語の共時態に共通して言える基本的な性質だ。「差異の体系」とは、こうした性質を指す。
メモ
- 1857年11月、ジュネーブ生まれ。
ソシュールの家系は何人か学者を出した家系で、父親も、博物学者(主に、生物学と地理学)だった。 - 1871年、論文「ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語源に縮約するための試論」(通称「諸言語に関する試論」)を執筆。ソシュール家と親交のあった言語学者ピクテに、批評を求めた。
- 1876年、ライブツィヒ大学に留学。
- 1878年7月〜1879年年末、ベルリンに滞在。
1878年、『印欧諸語の母音の原初体系に関する覚え書』を公刊。 - 1880年、ライプツィヒに戻り、ライプツィヒ大学に提出した論文で博士号を得る。
- 1880年〜1891年、パリに在住。
1881年から、高等研究学院で講師を勤め、パリ言語学会の幹事としては、学会誌を編纂。 - 1889年頃、この頃、ソシュールをコレージュ・ド・フランス正教授に迎えようとの動きがあった。しかし、就任するには、フランス国籍を取得して帰化する必要もあった。しばらく迷ったソシュールは、1891年に帰国することになる。
- 1891年、スイスに帰国。帰国の前に、レジョン・ドヌール勲章の叙勲を受けた。
帰国後は、ジュネーブ大学に着任。比較言語学(1891年〜1903年)の他、サンスクリット語、ゲルマン諸語、言語地理、俚言研究(方言研究)などを教授することになる。
この頃から後の一般言語学講義の元となる草稿を記しはじめている。 - 1893年頃から論文の発表が稀になり、1895年頃には論文を発表しなくなる。
- 1900年前後、この頃、俚言の調査、地名の研究をおこなっている。
- 1906年〜1909年、この頃アナグラム研究に没頭。
- 1907年、一般言語学の初講義をジュネーブ大学で、開講。
- 1908年〜1909年、ジュネーブ大学で一般言語学の2回目の講義。
- 1909年〜1910年、ジュネーブ大学で一般言語学の3回目の講義。
- 1912年、健康を害し、療養生活に入る。
- 1913年2月、死没。
- 1916年、同僚学者が編纂した『一般言語学講義』が公刊される。
- ソシュールの言語論(言語学基礎論)は、『一般言語学講義』を通じて、プラハ学派の音韻論、コペンハーゲン学派の言語素論などに影響を与えることになった。