ロマーン・ヤーコブソン
ロマーン・ヤーコブソン(Roman Osipovich Jakobson)
ロシア生まれの言語学者、ユダヤ系。1896年〜1982年。
第2次世界大戦中、政治難民として渡米。以降、アメリカで生活。
「ロマン・ヤコブソン」などの表記もあるが、通例「ロマーン・ヤーコブソン」と記される。
デンマークのイェルムスレウと共に、「ソシュールの理論を継承した言語学者」と言われる。(ヤーコブソンは、ソシュールの理論に批判的な検討を加えた面もある)
文化人類学者のレヴィ=ストロース、精神分析学のジャック・ラカンら、言語学以外の分野に、ソシュール記号論の影響を及ぼした。
ロシアの富裕なユダヤ系の家に生まれ、モスクワ大学に進んだ。卒業後、モスクワ言語サークルの創設に参加。数年後、オポヤーズ(詩的言語研究会)設立にも参加。
当時の言語学は、青年文法学派を代表に、歴史言語学の研究(諸言語の通時研究)が主流だった。学生時代、ソシュールの『一般言語学講義』に触れていたヤーコブソンは、オポヤーズで、当時としては非主流だった詩的言語の研究に触れた。
1920年、チェコ・スロバキア(当時)に渡る。後、プラーグ言語学サークル(プラハ言語学サークル)の創設に関与。後に参加したトゥルベツコイらと共に、現代的な音韻論の整備提唱をおこなった。プラーグ言語学サークルは、後に「機能構造主義言語学のプラハ学派」と、呼ばれるようになる。
「音韻論」とは、今風に言えば「認知される言語音」の研究であり、ソシュール理論で言うシニフィアン(意味するもの)の対立構造(示差的構造)の具体的整理にあたる。音韻論以前の「音声学」は、言語音声も、物理的な音として分析していたので、音韻論は、後の認知科学に通じる音声記号研究の分野を開拓したことになる。
1939年にナチ・ドイツがチェコを侵略すると、それまで、ナチのゲルマン民族説を学問的に批判していたトゥルベツコイらは亡命を余儀なくされた。ヤーコブソンは、一旦、コペンハーゲン(デンマーク)に逃れ、そこで、イェルムスゥらと交流を持った。さらに、オスロ(ノルウェー)、ストックホルム(スウェーデン)と転々とした後、1941年にアメリカ合衆国に政治難民として逃れる。
アメリカでは、1942年〜1946年、フランスやベルギー出身の学者たちが設立したニューヨーク自由高等研究学院で、講義をした。
この学院は、あからさまに言えば政治難民となった学者たちの失業対策だった。ヤーコブソンもここで、ウォーフ、ブルームフィールドらの言語学者や、フランツ・ボアズ、レヴィ=ストロースらの文化人類学者(民族学者)と交流をもった。
ヤーコブソンが1942年に自由高等研究学院でおこなった講義は、後に『音と意味についての6章』として纏められる。レヴィ=ストロースは、この講義を聴講していた。レヴィ=ストロースは、ヤーコブソンから教えられた記号論の考えを、文化人類学(民族学)に適用することになる。
1943年から、コロンビア大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科で研究、講義。コミュケーション研究や、意味論研究にも進んでいった。
メモ
- 1896年、モスクワで生まれる。
- 1914年、ラザーレフ東洋語研究所で学士相当学位を得る。
- 1915年、モスクワ大学卒業。
モスクワ言語サークルの創設に参加。同サークルの代表を1920年まで務める。 - 1917年、オポヤーズ(詩的言語研究会)の設立に参加。
- 1918年、モスクワ大学の修士相当学位を得る。
- 1920年、チェコ・スロバキア(当時)に渡る。
- 1926年、プラハ言語学サークルの副会長に(1939年まで)
- 1930年、プラハ大学で博士号を得る。
- 1933年、マサリク大学(チェコ・スロバキア)で、ロシア文献学の助教授に。
- 1934年、マサリク大学、客員教授に。
- 1937年、マサリク大学で、ロシア文献学、古代チェク文学の副教授に。
- 1939年、ナチ・ドイツがチェコを侵略。
ヤーコブソン、コペンハーゲン(デンマーク)に逃れ、そこで、イェルムスレウらと交流を持った。
さらに後、ノルウェー、スウェーデン、とスカンジナビア諸国を転々とする。 - 1941年、政治難民としてアメリカ合衆国に逃れる。
- 1942年〜1946年、ニューヨークに設立された高等研究自由学院で、言語学教授を勤める。
ヤーコブソンは、ここで、ウォーフ、ブルームフィールドらの言語学者や、フランツ・ボアズ、レヴィ=ストロースらの文化人類学者(民族学者)と交流をもった。 - 1943年〜1946年、コロンビア大学で、言語学の客員教授。
- 1946年〜1949年、コロンビア大学で、チェコ・スロバキア学教授。
- 1949年〜1969年、ハーバード大学教授。スラブ語、スラブ文学、一般言語学。
- 1957年〜1969年、マサチューセッツ工科大学教授。コミュニケーション学、意味論を研究。
- 1982年死没。
- ヤーコブンソンは、ソシュール理論の内、恣意性の概念と、線状性の概念に批判的検討を加えた。また、共時態/通時態の区別についても批判的だった。しかし、一方で、シニフィエ(意味するもの)とシニフィアン(意味されるもの)との結合様態への関心は一貫していた。ヤーコブソンは、音韻論の研究者として有名だが、意味への関心も失わなかった。もっと言えば、音と意味の結びつき(構造)を研究し続けた。
- 「機能構造主義言語学のプラハ学派」に関わったヤーコブソンだが、それ以前にオポヤーズに関わっていて、詩的言語、への関心は、一貫したものがあった。これは、後の言い方で言えば、言語の意味生成機能への関心になる。例えば、1962年には、レヴィ=ストロースとの共同執筆「シャルル・ボードレールの『猫たち』」を発表したりしている。
コミュニケーション研究や意味論研究に進んだのも、当然だったと思える。