1Q84 BOOK1

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1Q84』BOOK1

村上春樹

1Q84』BOOK1は、村上春樹の長編小説『1Q84』の第1分冊。2009年に、BOOK2と同時に、単行本が新潮社から刊行された。

BOOK1は<4月−6月>と副題が付され、全24章で構成されている。

奇数章と偶数章で、それぞれ別の物語が描かれ、章番号順に(つまり交互に)配列されていく。
(この形式は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以降、著者が長編小説で何度も採用してきたもの)

奇数章では、首都高速で渋滞に巻き込まれたタクシーの乗客青豆が、運転手の話す「おおっぴらには言えない」「非常手段」を聞くと、高速上で下車、勝手に非常階段を降りていく。地下鉄で渋谷に移動する彼女は、中級シティホテルに向かうと、従業員を装い、客の男1人を暗殺する。

偶数章では、小説家の玉子である予備校講師、天吾が、ふかえり(深田絵里子)という少女が語った物語『空気さなぎ』に魅せられる。天吾は、文芸誌の新人賞に応募された『空気さなぎ』をリライトするよう編集者の小松からもちかけられる。当初、乗り気ではなかった天吾は、ふかえり本人と会うことをきっかけに、リライトをしていくことに。

用語や登場人物

IQ84
作中世界の歴史が、細部において自分の記憶と異なることを知った青豆が、BOOK1の第9章で個人的に密かに仮称するのが「1Q84」(“Qはquestion markのQだ。疑問符を背負ったもの”)。
  • 「1984年の日本のパラレル・ワールドが1Q84」に近い。ただし、作中、主要人物の口から、1Q84は、SF小説的な並行宇宙ではない(もはや本来の1984年はどこにもない)旨が語られる(BOOK2)。仮に、1Q84を「パラレルワールド」と呼ぶにしても、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』で描かれたような、幻想的な架空社会、架空歴史の方に類縁のはず。ハードSF的な並行世界としては描かれていない。
エピグラフ
BOOK1巻頭には、ポピュラーソング「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン(It's Only a Paper Moon)」(E. Y. Harburg and Billy Rose)の歌詞から、一部がエピグラフとして引用されている。BOOK2巻頭には、エピグラフの類が見当たらない。BOOK1巻頭のものが、BOOK1〜BOOK2全体の内容に対応している、とみて構わないのかもしれない。
BOOK1の作中では、「イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン」への言及が、BOOK1第5章の本文中に見られる。
腰帯コピー
単行本腰帯に記されたコピーは、「『こうであったかもしれない』過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、『そうではなかったかもしれない』現在の姿だ。」。
BOOK1第1章「(青豆)見かけにだまされないように」
拾ったタクシーが首都高で渋滞に巻き込まれた青豆。「待ち合わせの時間」を気にしている様子の彼女に、運転手は「非常手段」がある、と言い「あまりおおっぴらには言えない方法」として、非常用階段から降りる手もあると告げる。青豆は、高速上で下車、路肩を緊急避難場所まで歩き、勝手に非常階段を降りることにする。下車する直前、彼女は運転手から「見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」と、言われる。
ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』
第1章冒頭は、タクシーのFMラジオから聞こえるクラシック番組の曲が、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」だ、と青豆が気づく場面から導入される。青豆は歴史好きだが、クラシック音楽のファンではない、それなのに音楽冒頭の一節を聴いた瞬間から、彼女の脳内には、関連した様々な知識が浮いてきた。
ヤナーチェック(レオシュ・ヤナーチェク)は、19世紀半ばに、モラヴィア地方(現在のチェコ東部)に生まれた音楽家。“当時の西欧風のクラシック音楽に背を向けた作風だった”と、されている。「シンフォニエッタ」は1926年に作曲された“小振りなシンフォニー”。
  • BOOK1第9章では、図書館で歴史の細部が自分の記憶と食い違ってると確認した青豆が、過去の新聞を閲覧した後、ヤナーチェックと「シンフォニエッタ」のことも調べる。タクシーの車内で「シンフォニエッタ」を耳にしたとき感じた「身体のねじれ」のような感覚(BOOK1第1章)が気になったからだ。図書館を出た後、自由ヶ丘駅近くのレコード店に寄る彼女は、「シンフォニエッタ」も収められたレコードを購入。自宅に戻ってから聴いてみるが、「ねじれのような感覚」は再現されない。
  • BOOK1第14章では、高校2年の時の天吾が、吹奏楽部の臨時奏者として音楽コンクールに駆り出され、『シンフォニエッタ』の難しいティンパニー演奏を担当したことが、回想的描写で語られる。
  • ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は、奇数章の物語と偶数章の物語の双方に渡るシンクロニシティ(意味のある偶然、あるいは、意味あり気に思える偶然)を演出する道具立てで、作中に最初に導入されるものになる。
青豆
BOOK1、BOOK2、共に奇数章で語られる物語の主役級女性キャラ。登場時点で29歳。「青豆」は名字で、名前は作中明かされない。BOOK1の第3章で、青豆が暗殺者であることが描かれる。
  • BOOK1第5章では、第3章での暗殺を終えた青豆が、赤坂のホテル最上階のバーで、一晩だけのセックスの相手を探す様子が描かれる。
  • BOOK1第7章では、青豆が麻布に住む資産家の老婦人のみから暗殺を請け負っているらしい様子が、示唆的に描かれる(この関係が、確定的に描かれるのはBOOK1の中盤以降)。
  • BOOK1第9章で、青豆は、自分の記憶とは細部が異なる歴史を持つ世界にいることを確信。作中世界のことを、密かに「1Q84」と仮称する。
  • BOOK1第11章では、彼女の職業が、広尾にある高級スポーツ・ジムに属すインストラクターであることが語られる。
首都高速の非常階段
BOOK1第1章で、青豆の乗っているタクシーは、首都高速で渋滞に巻き込まれている。渋谷での仕事(暗殺)の予定時間があった青豆が、第3章で勝手に降りていく非常階段は、三軒茶屋付近の国道246号沿いにあった、と設定されている。
このタクシーは、砧近辺で青豆を乗せ、首都高を使うよう指示されて用賀から首都高3号線に乗り、渋谷方面へ。三軒茶屋付近、池尻出口手間で渋滞に巻き込まれた、とのこと。
  • BOOK1第9章で、自分が歴史の異なる世界(1Q84)にいることを確信した青豆は、首都高速の非常階段を降りた前後のことを回想する。彼女が異世界の兆候にはじめて気付いたのが、非常階段を降りた後のこと(BOOK1第3章)だからだ。
BOOK1第2章「(天吾)ちょっとした別のアイデア」
冒頭では、天吾が幻覚に見舞われている様子が描かれる。ついで、彼が意識を取り戻すに連れ、誰かと面談していたらしい様子が描かれ、さらに新宿の喫茶店で小松祐二と会っている様子が描写されていく。天吾は、小松に、ふかえり名義の新人賞応募作『空気さなぎ』を候補作として残すよう進言。逆に、小松の「ちょっとした別のアイデア」、秘密裏に『空気さなぎ』をリライトするプランに協力するよう持ちかけられる。
天吾の最初の記憶
“天吾の最初の記憶は一歳半のときのものだ。”と、書き出される第2章冒頭は、時々、天吾を見舞う幻覚の描写からはじまる。それは、ベビーベッドに1人の赤ん坊が寝ている傍らで、彼の母親が父ではない男に乳首を吸わせる短い映像記憶だ。天吾は、時々、予兆も無くこの映像記憶に見舞われると、普通は10秒ほどの間、同じ映像を繰り返しみる。誰かと同席しているときにこの“発作”に見舞われると、天吾は立ちくらみのふりをするようにしていた。
天吾は、この映像記憶が、あるいは後に無意識的に捏造されたフェイクの記憶だろうか、と検討したこともある。しかし、記憶の鮮明さ、実在感などから、おそらく真実の記憶なのだろう、と考えている。
天吾(川奈天吾)
BOOK1、BOOK2、共に偶数章で語られる物語の主役級男性キャラ。29歳。予備校で数学講師を勤めながら、小説を書いている(職業的作家になることを求めているかどうか、導入部では本人にもよくわからずにいる)。第2章で、懇意にしている編集者の小松に、下読みをした新人賞応募作の内『空気さなぎ』を候補作として残すよう進言。逆に、秘密裏に『空気さなぎ』リライトのプランに協力するよう、持ちかけられる。
天吾は、「理性も常識も本能も、こんなことからは一刻も早く手を引いた方がいいと訴えて」いるにも関わらず、物語の魅力に惹かれ、ふかえり(深田絵里子)の了承を得て応募原稿の文章を整えることになる。
(「『空気さなぎ』がもし書き直されなくてはならないのだとしたら、僕としてはその作業をほかの人間の手に委ねたくはありません」)
『空気さなぎ』
ふかえりの名義で文芸誌の新人文芸賞に応募されてきた物語。作中に盛り込まれる最初の物語内物語になる。ただし、物語の概略が語られるヵ所はあっても、直接作品テクストが記されるヵ所は、BOOK1では例外的に、極、少ない分量がみられるだけ。概ねはリライト作業をする天吾の意識を通して描写される。
編集者の小松は、『空気さなぎ』には、何か特別なものがあるものの、文章がなっていないうえ、作者には、文章に対する興味が無い、と評価する。
「空気さなぎ」とは、物語に登場する不気味な雰囲気の小人たち(リトル・ピープル)が望むと、空中から紡ぎだされる繭のことでもある。天吾は、さなぎと繭の混同には当初から気付いているが、「空気さなぎ」という言葉の雰囲気がいい、と評価している。
  • BOOK1第6章で、天吾は応募原稿のリライトをはじめる。改稿作業初日の様子が多く描かれ、『空気さなぎ』の内容概略も、天吾の読解というフィルター越しに語られる。天吾は、『空気さなぎ』の主人公を、おそらく過去のふかえり自身だろうと推測する。
  • BOOK1第8章で、応募された『空気さなぎ』の原稿は、実は、ふかえりが口述した物語を、同居している別の少女(戎野アザミ)がワープロ文書化したものだった、と明かされる。
    第8章の本文中には、あるいは『空気さなぎ』応募原稿の一部であるかもしれない短いパラグラフが織り交ぜられている。(天吾の想起のような形で挿入されていて、応募原稿の一部であるとの確証は得られない)
  • BOOK1第12章で、先生(戎野隆之)が天吾に語るところによれば、戎野邸に保護された頃、失語症のような状態で感情表現も乏しかったふかえりは、『空気さなぎ』の(元になるような?)物語をアザミにだけ語りはじめてから、急速に言語能力や感情を回復した、とのこと。
    同章で天吾は、『空気さなぎ』について「物語はエリさんが『さきがけ』の中で経験した、あるいは目撃した何かを示唆しているのだと思われますか?」と、先生の意見を求める。「あるいはそうかもしれない。」と、先生。
  • BOOK1第14章では、天吾は『空気さなぎ』のリライトを終え、すでに小松に引き渡した後の様子が描かれている(作業は、第13章で描かれた出来事と第14章で描かれた出来事との間にいったん終了したことになる)。天吾のセリフによれば、リライト作業は十日間ほどで集中的におこなわれたようだ。同じ第14章で、小松は天吾にリライト原稿の「二つの月」の描写について部分修正を依頼。
  • BOOK1第16章では、作中の5月、天吾がリライトしたふかえり名義の『空気さなぎ』は、小松の属す雑誌社の新人文芸賞を受賞することになる。
    天吾は小松から、5月16日に新橋のホテルで授賞式と記者会見がおこなわれる予定を聞かされる。続けて、ふかえりの事務所的なペーパー・カンパニーが設立され、先生(戎野)が、代表を引き受けることも聞かされ、天吾は先生の意図をいぶかしむ。
  • BOOK1第18章では、ふかえりの新人賞授賞式の後、『空気さなぎ』の掲載された文芸誌が売り切れに。天吾は、小松から、単行本を緊急刊行する出版社の決定を聞かされる。
  • BOOK1第19章では、物語内の現実(麻布のセーフハウス)に夜半、姿を現すリトル・ピープルたちが空気さなぎをつむぐ様子が描かれる。
  • BOOK1第22章では、緊急出版された『空気さなぎ』の単行本が、文芸書ベストセラーの1位になる経緯がかいつまんだ感じで語られる。
小松祐二
BOOK1第2章から、偶数章に登場する男性キャラ。45歳で文芸誌の編集一筋でやってきた。新人賞に応募された『空気さなぎ』を秘密裏にリライトするよう天吾を仕向ける。
物語内の今から5年ほど前、天吾が新人賞に応募した作品に注目。天吾のやる気と素質を評価して、以降、細かな仕事を回すなど、懇意にしてきていた。
天吾の父親
BOOK1第2章では、5年前に小松と初めてあった頃の天吾が小松に語った自分の来歴の内で、父親が認知症になっていて、房総半島南端の療養所にいる、と短く記されている。
  • BOOK1第8章では、天吾の父親についての話が、天吾の回想も交えた形で描写される。“多くの人々は日曜日の朝を休息の象徴として考える。しかし少年時代をとおして、天吾が日曜日の朝を喜ばしいものと考えたことは一度もなかった。”。それは、NHKの集金人をしていた父親が、日曜日になると集金に天吾を連れて歩いたからだ。小学校3年生のとき、クラスでの天吾のあだ名は「NHK」とつけられ、ホワイトカラーの子供たちの間で“一種の「異人種」にならざるを得なかった。”。第8章での天吾の回想は、父が天吾に「母は死んだ」と教えたこと、天吾がその言葉を信じていないことなどの追想に連なる。
BOOK1第3章「(青豆)変更されたいくつかの事実」
青豆は首都高の非常階段を勝手に降りた後、渋谷に向かう。“中級のシティホテル”で、ホテルのスタッフを装うと、宿泊客の男性を殺害。描写から、彼女が、職業的な暗殺者であるらしいと、(読者には)想像される。
大塚環
青豆の旧友。BOOK1の第3章にて、青豆の回想が描かれる。
  • BOOK1第13章で、26歳の誕生日間近に環が自殺したことなどが回想的に記される。自殺の原因を、環の夫が常習的に繰り返したDVとみなした青豆は、彼を殺害。後、麻布に住む老婦人に見出され、専属的な暗殺者になった。こうした過去の経緯も一連の回想的描写で記される。
青豆のお祈り
BOOK1の第3章では、渋谷のシティホテルに入り、洗面所で暗殺決行の最終準備を整えた青豆が、“いつものようにお祈りの文句を唱えた”ことが短く記される。
(“その文句自体には何の意味もない。意味なんてどうでもいい。お祈りを唱えるということがだいじなのだ”)
  • BOOK1第12章では、中央線で自宅に帰る途中の天吾の回想に、証人会のお祈りが青豆のお祈りと同じ文句だろうと、読者に想像させるような描写が織り込まれている。
  • BOOK1第13章では、最初の暗殺(私的制裁)を決行した直後の青豆が、“ほとんど反射的に”お祈りの文句を口にしたことが、回想的描写で語られる。直後には、お祈りのフレーズが、行頭1文字下げで記されてすらいる。
  • BOOK1第15章の末尾では、深夜の自室で1人飲酒する青豆の独り言のようなお祈りの描写“「そして王国がやってくる」と青豆は小さく口に出して言った。”に、“「待ちきれない」とどこかで誰かが言った。”との話者不明で謎めいた1行が続けられる。
BOOK1第4章「(天吾)あなたがそれを望むのであれば」
深夜1時すぎ、自宅にかかってきた電話で起される天吾。小松からだろう、と予想しつつ受話器をとる天吾は、明日夕方、ふかえり(深田絵理子)と会うよう説き伏せられる。彼女が、天吾とだけ会いたいと要望しているという話だ。明けた日の夕方、指定された新宿の喫茶店で天吾はふかえりと会う。『空気さなぎ』リライトのプランに乗り気ではなかった天吾だが、ふかえりと直接会い、リライトが“とても自然な、自発的な欲求のようなもの”という気持ちに気付く。
(BOOK1第2章で、天吾は小松に「君の気持ちはもう『空気さなぎ』の書き直しに向かっている」などと言われていた)
章題は、P.98で、「君さえよければ、明日からでも『空気さなぎ』の書き直しの作業に入りたいんだ」と言う天吾に、「それをのぞむのであれば」と答えるふかえりのセリフに近似。
ふかえり(深田絵里子)
BOOK1第4章から偶数章に登場する女性キャラ。17歳高校生。名前は、『空気さなぎ』の作者として、第2章から天吾と小松の会話で話題にのぼる。登場時は、極端に短いセンテンスで、一風変わった話し方しかしないエキセントリックさが印象づけられる。(天吾は、当初、彼女との会話を“手旗信号で話しているみたいだ”と思う)
  • BOOK1第8章で、実はふかえりは、一種の読字障害(ディスクレシア)で、文字を読むこと、書くことが大変困難であることが明かされる。
  • BOOK1第12章で、ふかえりの保護者にあたる先生(戎野隆之)の口から天吾に、ふかえりが、数年前は無感情で失語症のような状態に陥っていたことが語られる。
    先生(戎野)によれば、娘のアザミにふかえりが『空気さなぎ』の物語を語るにつれ、言語能力と感情は、目に見えて回復した、とのこと(物語は少女2人だけの間でひっそり語られ、先生本人が語られる現場に居合わせたことはない)。
  • BOOK1第18章で、天吾は、新人賞受賞者としてのふかえりの記者会見終了直後、小松からの電話で、会見の首尾を伝えられる。
  • BOOK1第22章では、『空気さなぎ』の単行本が刊行され、文芸書ベストセラーになった後、天吾は小松からふかえりと連絡がとれなくなっていることを知らされる。
  • BOOK1第24章で、天吾は、ふかえりが天吾宛てに自声メッセージを録音したカセットテープを受け取る。おそらく、ふかえりは先生(戎野隆之)の考えで身を潜めているのだろうと思えるが、テープの録音メッセージでは、今ひとつ定かではない。
リトル・ピープル
『空気さなぎ』の物語に登場する、小人のような存在。BOOK1第4章にて、天吾がふかえりとの会話で話題にするのが作中初の言及。このヵ所でふかえりは、「リトル・ピープルはほんとうにいる」と、天吾に語る。
  • BOOK1第6章では、『空気さなぎ』の物語内の、不気味な雰囲気も持つリトル・ピープルの様子も語られる。
  • BOOK1第8章では、ふかえりが、リトル・ピープルのことを普段は「あの人たち」と呼び、不用意に口にすることもはばかっている様子が描かれる。
  • BOOK1第17章の末尾で、麻布のセーフハウスに保護されていた10歳の少女、つばさが「リトル・ピープル」という言葉を口にする。これは奇数章で初の言及になる。
  • BOOK1第18章では、ふかえりを伴った先生(戎野隆之)と天吾が会う。この時「あけぼの壊滅事件」に前後した「さきがけ」の変質について話し合ってる先生(戎野)と天吾の会話に、ふかえりが言葉を挟む。「リトル・ピープルがやってきたから」と、だけ語るふかえりの言葉をきっかけに、先生と天吾はリトル・ピープルを巡る会話をする。
  • BOOK1第19章では、物語内の現実(麻布のセーフハウス)に姿を現すリトル・ピープルの様子が、はじめて描かれる。
  • BOOK1第24章で、ふかえりが自分でメッセージを録音したカセットテープを受け取った天吾は、「リトル・ピープルのことをジにしたことでリトル・ピープルははらをたてているかもしれない」などのメッセージを聞く。ふかえりの真意は掴みづらいが、リトル・ピープルの動向への注意を天吾にうながしている印象が強い。
BOOK1第5章「(青豆)専門的な技能と訓練が必要とされる職業」
“仕事を済ませたあと、青豆はしばらく歩いてから、タクシーを拾い、赤坂のホテルに行った。”。彼女が、ホテル最上階のバーで、一晩だけのセックスの相手を探す様子が描かれる。情事の後、青豆は渋谷のホテルで死体が発見された報道がないか、TVのニュースでチェック。この時、青豆の知識とは、微妙に違和感のある情報も報道されるが、“それについてはあまり深く考えないことにした。”。
章題は、赤坂のホテルのバーで、一夜限りの相手と、互いの職業を遠まわしに紹介しあう青豆のセリフからの抜粋になっている(P.108)。
BOOK1第6章「(天吾)我々はかなり遠くまで行くのだろうか」
金曜日の早朝5時すぎ、自宅にかかってきた電話で起される天吾。“そのときは長い石造りの橋を歩いて渡っている夢を見ていた。向こう岸に忘れてきた何か大事な書類を取りに行くところだった。橋を歩いているのは天吾一人だけだ。”。電話で、小松は、費用は負担するからワープロを購入し『空気さなぎ』のリライトにかかるよう指示する。
第6章では、天吾がとりかかる改稿作業初日の様子が多く描かれ、『空気さなぎ』の内容概略も、天吾の読解というフィルター越しに語られる。合間に天吾の年上の女友達、セックスフレンド的な不倫相手の人妻から電話が2度、ふかえりからの電話が1度かかってくる(“一日に四度も電話がかかってくるのは、天吾にとってはずいぶん珍しいことだった。”)。
章題は、第4章で天吾がふかえりとはじめて会ったときの約束「あってもらうひとがいる」(P.98)の件を、ふかえりからの電話でやりとりするときのセリフ(P.139)からの抜粋にあたる。
BOOK1第7章「(青豆)蝶を起さないようにとても静かに」
土曜日の午後、麻布の柳屋敷を訪れる青豆は、屋敷の女主人が蝶を養うために設けた温室に通される。老婦人と青豆の遠まわしな会話から、第3章で青豆が殺害した男が、DVの常習犯だったこと、殺害の依頼が老婦人から青豆になされたことが暗示される。館を去り際、青豆は警官の装備や制服が変更された経緯についてタマルに聞く。タマルが語る3年前の過激派と警察の銃撃戦の件は、青豆の記憶には無かった。混乱を表に出さないよう注意しつつ、青豆は柳屋敷を去る。
章題に近似の表現は、肩に蝶を止まらせたままクッキーを食べる老婦人の描写の内にある(P.154)。
タマル
麻布の柳屋敷の門番のようにして、BOOK1第7章から奇数章に登場する男性キャラ。女主人のボディガードで“高位の空手有段者であり、必要があれば武器を効果的に使うこともできる”。“女主人に深い敬意を抱き、忠誠を尽くしている。”。
  • 作品が進むにつれ、タマルが、柳屋敷に隣接するセーフハウスの警護も担当していることがわかる。
    また、セーフハウスに収容されているDV被害者女性たちの関係者の内、法律家で対処しきれない者に、比較的穏便な対抗手段をとることも示唆される。タマルでも対処しきれない相手に対する私的制裁が、女主人から青豆に依頼されるらしい。タマルは、女主人と青豆のやっている秘密裏の私的処刑(暗殺)に気付いてはいるが、口出しを控えつつサポートはしている様子。
柳屋敷の女主人(老婦人)
BOOK1の第7章で初登場する奇数章の女性キャラ。麻布にある古い洋風邸宅で暮らしている。「柳屋敷」は、屋敷周辺の住人たちが呼ぶニックネーム。第7章では、彼女が青豆に暗殺を依頼していたことが遠まわしに描かれる。
  • BOOK1第11章では、老婦人が“都内でも有数の高級なスポーツ・クラブ”の会員で、インストラクターとして勤務していた青豆と知り合った過去の経緯が描かれる。
  • BOOK1第17章では、老婦人が、DV被害者の女性用の私営セーフハウスを営んでいることが描かれる。同じ章で、マダムの実の娘もかつて、反復されたDVに絶望し自殺したことが明かされる。
BOOK1第8章「(天吾)知らないところへ行って知らない誰かに会う」
日曜日は、天吾に幼少期の父親との関係のことを思い起こさせる。幼少期の追想からはじまる第8章は、天吾が新宿駅のホームでふかえりと待ち合わせ、中央線に乗る描写に移る。電車内でのふかえりとの会話で、天吾は彼女が一種の読字障害で、『空気さなぎ』応募原稿は、ふかえりが語った物語を彼女と同居している少女(アザミ)がワープロに打ち込んだものだった、と察する。
章題に近似の表現は、第8章の本文中にはみあたらない。強いて言えば、天吾が、幼児体験に起因するかすかな不安をふかえりに語る部分(P.185〜186)の文意が、章題を連想させる。
BOOK1第9章「(青豆)風景が変わり、ルールが変わった」
“青豆は自宅からいちばん近いところにある区立図書館に行った。”。過去の新聞を閲覧し、第7章でタマルから聞いた「銃撃戦」が、作中の3年前に起きたあけぼの壊滅事件と確認。歴史の細部が自分の記憶と異なることを認める。近日の記憶を想い起こす青豆は、最初に変化に気付いたのが、首都高の非常階段を降りた直後であることを想起。あるいは、非常階段を降りる間か、タクシーの内で「シンフォニエッタ」を聴いている時に、異なる世界に迷い込んだのか、と惑う。青豆は、自分が今いる世界を密かに「1Q84」と仮称する。
章題に近似の表現は、P.202で青豆が、内心“私はその疑問符付きの世界のあり方に、できるだけ迅速に適応しなくてはならない”と考える前後にみられる。
あけぼの
作中世界の1981年に、警察及び自衛隊と銃撃戦を展開し、壊滅したとされている、政治的な武装過激派集団。作中世界では、このあけぼの壊滅事件をきっかけに、1982年から警察官の通常装備にセミ・オート拳銃(ベレッタのモデル92)が採用された。
  • 青豆は、はじめ、街頭の警察官がセミ・オートを携行していることに疑念を抱く(BOOK1第3章)。ホテルのバーでバーテンから、自分の記憶にない大きな銃撃戦事件のことを聞き(同第5章)、さらに信頼するタマルの口からも同じ事件の概略を聞く(同第7章)。そして、第9章では、公立図書館で過去の新聞を閲覧、事件の概要を掴むと、自分が1984年の日本から1Q84年の日本に迷い込んだと考える。
  • 壊滅前のあけぼのは、ユートピア主義的コミューン「さきがけ」から、作中の1976年に分派した集団(「あけぼの」を名乗るようになったのは1977年頃から)。さきがけは、有機農法の共同農業を営むコミューンだった。銃撃事件を起こすまでは、あけぼのも世間的には、さきがけ同様に、有機農業のコミューンとして知られていた。
BOOK1第10章「(天吾)本物の血が流れる実物の革命」
天吾は、ふかえりに導かれるまま、中央線から青梅線に乗り換え、奥多摩から遠く無い二俣尾駅で下車。駅前からタクシーに乗って、かなり離れた印象の山中に建つ日本家屋を訪れる。ふかえりの事実上の保護者である先生(戎野隆之)と面談する天吾は、幾つかの質問に応え、『空気さなぎ』のリライトをすることを先生からも許諾される。そして、ふかえりが先生の家で暮らしている事情についても聞かされる。
章題は、先生(戎野)が天吾にふかえりの父(深田保)と「さきがけ」のことを話すくだりの内にみられる(P.228)。
先生(戎野隆之)
物語内の今時点での、ふかえりの保護者。BOOK1の第10章で初登場する偶数章のキャラ。かつては、文化人類学の研究者だったが、現在は学者生活から身を引いている。
天吾はBOOK1第4章で、はじめて会ったふかえりから『空気さなぎ』リライトの許可を得る、が、その条件として「あってもらうひとがいる」と言われる。それが「センセイ(戎野隆之)」であることは、第8章でふかえりから告げられる。
第10章で天吾と会った先生(戎野)は、天吾の口から天吾自身のこと小松のこと『空気さなぎ』リライトのプランのことを聞き、ふかえりが天吾を信用しているらしい、との理由も挙げて、リライトを了承。
BOOK1第10章では、1960年代、まだ大学で研究者をしていた戎野が、やはり研究者だったふかえりの父親と親しい友人だったことも語られる。戎野本人は、60年代の大学紛争に嫌気がさして、退職したとのこと(「体制だろうが反体制だろうが、そんなことはどうでもいい。所詮は組織と組織のぶつかりあいにすぎない」)。
  • BOOK1第12章では、ふかえりが、戎野の家で暮らすようになった経緯が語られる。それはふかえりが10歳だった、1984年/1Q84年から7年前で、何の予告もなく戎野の家に現れたふかえりは、失語症のような状態に陥っていた。
    その後、戎野は何度もふかえりの両親との連絡を試みたが、その都度「さきがけ」に阻まれ、1984年/1Q84年に至っていた。
  • BOOK1第16章では、小松の口から、大学退職後の戎野が、投資コンサルタントとして成功している、と語られる。
    同じやりとりで、ふかえりの事務所的なペーパー・カンパニーが設立され、先生(戎野)が、代表を引き受けることも聞かされ、天吾は先生の意図をいぶかしむ。
  • BOOK1第18章では、ふかえりを伴った先生と天吾が会う。この時、天吾は先生にふかえりの事務所代表を引き受ける真意を質問。先生は、マスコミを誘導し、「さきがけ」に揺さぶりをかけ、内部で消息が知れなくなっているふかえりの両親の情報を得るのが狙い、と遠まわしに認める。
アザミ(戎野アザミ)
先生(戎野隆之)の実子で、ふかえりの2歳年下の娘(15歳)。BOOK1、BOOK2では、名のみ語られ、直接登場する場面は無い。
  • BOOK1第8章で、『空気さなぎ』の応募原稿は、実はふかえりが語った物語をアザミが文書化した旨、ふかえりから天吾に語られる。
深田保
ふかえりの父親。戎野隆之(先生)よりも10歳ばかり年下で、1960年代には、戎野と同じ大学同じ学部で「教えていた」(教授だったのか助教授だったのかは定かでない)。
新左翼セクトの指導者だった深田保は、戎野の退職から2年後には大学から事実上の解雇に処された。家族やセクト組織から追随した学生と共にタカシマ塾に加入。さらに2年後、タカシマ塾を離れ、自分たちの農業コミューン「さきがけ」を発足させた。深田らのタカシマ塾加入は、ノウハウを習得するためだったとは、戎野の談(BOOK1第10章)。
  • BOOK1第12章で、先生(戎野隆之)が天吾に語るところによれば、1984年/1Q84年現在、深田保とその妻(ふかえりの母)が属しているはずの「さきがけ」外部からは、深田夫妻の安否を確認できずにいる。先生(戎野)は夫妻が拘禁されている可能性も考え、警察にもかけあったが、捜査には至らなかった。
タカシマ塾
全国的な規模の有機農法農業コミューン。BOOK1第10章にて、先生(戎野隆之)が天吾に語るふかえりの境遇の内で、言及される。
深田保が、妻や娘(ふかえり)、毛沢東主義の学生活動家たちと共に2年ほど身を投じた。「タカシマ塾」は、後に深田保が立ち上げた「さきがけ」と異なり、共産的体制のコミューンだったと、設定されている。
先生(戎野)によれば「タカシマのやっていることは、私に言わせればだが、何も考えないロボットを作り出すことだ。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外してしまう。ジョージ・オーウェルが小説に書いたのと同じような世界だよ」とのこと。
  • BOOK1第10章で、先生(戎野隆之)が天吾に語る話を、同席して聞いていたふかえりは、「タカシマは楽しかった」と言葉を挟む。先生は「小さな子供にとってはきっと楽しいところなんだろう。でも成長してある年齢になり、自我が生まれてくると、多くの子供たちにとってタカシマでの生活は生き地獄に近いものになってくる。自分の頭でものを考えようととする自然な欲求が、上からの力で押しつぶされていくわけだからな。それはいうなれば、脳味噌の纏足のようなものだ」と応じる。
  • 作中の「タカシマ塾」は、おそらく、「山岸会」がイメージソースにされた、架空の集団と思われる。
    『1Q84』の内容を巡る議論の内には、「タカシマ塾のモデルは山岸会」とみなした意見も聞かれるが、フィクションの読解では、作中で描かれるタカシマ塾、さきがけ、あけぼのの性格の違い、の吟味などをモデルの詮索より優先させて考えていった方がいいだろう。
さきがけ
深田保が、タカシマ塾からの離脱後立ち上げた農業コミューン。後に「あけぼの」が分離離脱した。BOOK1第10章にて、先生(戎野隆之)が天吾に語るふかえりの境遇の内で、言及される。
作中の1981年、「あけぼの」が壊滅する銃撃戦が起きた年には、すでに「さきがけ」は宗教法人に変貌していた。宗教法人の認可を得たのは、作中の1979年のこと、とされている。
  • BOOK1第10章で先生(戎野隆之)が語るところでは、「さきがけ」では、当初、タカシマ塾のような原始共産制は採られず、私有財産も限定せず、全体の収益を収入として分配することもされた。コミューンは、共同生活を送るユニット複数から構成され、ユニット間の緩やかな連帯が企図された。メンバーはユニット間の移籍も自由だった。しかし、戎野(先生)の語るところによれば、この緩いユニット制が原因になり、「さきがけ」の内部が、政治的な急進派とユートピア主義的な多数派とに分裂していくことは不可避だったと言う。
  • BOOK1第19章で、麻布の老婦人は、さきがけのリーダーが、信徒の少女に恩寵を授ける祭儀との体裁でレイプを繰り返していて、やはり信徒である少女たちの両親もそれを推奨している、と青豆に告げる。組織的なレイプだとも語る老婦人は、さきがけのリーダーの暗殺を青豆に依頼し、青豆も引き受ける意思を示す。
BOOK1第11章「(青豆)肉体こそが人間にとっての神殿である」
青豆の来歴についての回想的描写から導入され、物語内の今では、青豆が六本木のシングルズ・バーで一夜だけの相手を探しあぐねている様子が挟まれる。柳屋敷の老婦人との出会いの回想的描写が織り込まれた頃、物語内の今で、青豆は同年輩の見知らぬ女(あゆみ)に声をかけられる。婦人警官だと自己紹介するあゆみは、青豆を説得し、2人で組んで、2人連れの男のボーイ・ハントをはじめる。
章題とほとんど変わらない表現は、P.241で青豆の信念が記されているヵ所の内にみられる。
あゆみ(中野あゆみ)
BOOK1第11章から偶数章に登場する女性キャラ。青豆が、六本木のシングルズ・バーで、適当な男を探している時に、声をかけてくる。職業は、婦人警官。
青豆に親しみを感じたらしい様子のあゆみは、青豆を引き込む感じで、2人で組んだボーイ・ハントをはじめる。
BOOK1第12章「(天吾)あなたの王国が私たちにもたらされますように」
天吾は、第10章に引き続き、先生(戎野隆之)の家で面談をしている。先生はふかえりに「悪いけどお茶を持ってきてくれないか」と頼み、彼女が席を外す間に、彼女の両親についての話を進める。天吾は『空気さなぎ』の物語の内容や、リトル・ピープルについて先生の意見を尋ね、戎野邸を辞す。帰りの中央線車内で、ふと目にした母娘連れの少女が、天吾に小学生時代同級生だった少女のことを思い出させる。その少女の家は、家族ぐるみ「証人会」の信徒だった。
章題は、証人会の信徒だった少女(天吾の小学生時代の同級生)が、給食の時間に唱えていたお祈りの一部(P.273)。
証人会
作中に設定されている架空のキリスト教系新興宗教団体。原理主義的で、明らかにエホバの証人が、イメージ・ソースにされている、と思われる。
BOOK1第12章で、戎野邸からアパートの自室に戻る途中の天吾は、中央線の車内で印象的な母娘を目撃。それがきっかけになって、小学校時代の同級生で、証人会の信徒だった少女のことを思い出し回想する。
この章の天吾の回想で、読者は、奇数章で時折青豆が口にする「お祈り」が証人会のものだろう、と察せられる。
  • BOOK1第13章では、青豆の回想や、あゆみとの通話で、読者は子供の頃の青豆が両親の方針で宗教的な生活を送っていたこと、成長するにつれ反発して信仰生活を離れたらしいことが察せられる。
  • BOOK1第19章では、青豆と柳屋敷の女主人の会話で、幼い頃の青豆が証人会の信仰生活を守っていたこと。10歳の時に、反発して家を出、親戚に身を寄せて信仰を捨てたことが確定的に描かれる。
  • 『1Q84』の「証人会」を思わせる架空の宗教団体は、『1Q84』に先立つ村上春樹の短編、『神の子供たちはみな踊る』(同名の短編集に採録された表題作)でも描かれている。
BOOK1第13章「(青豆)生まれながらの被害者」
青豆が、自宅で、珍しく深刻な二日酔い状態で目覚める描写からはじまる。第11章で描かれなかった、あゆみと組んだボーイ・ハントの首尾を、青豆は途中までしか思い出せない。青豆の様子を気にしたあゆみから、電話がかかってくる。その後、青豆は、麻布の柳屋敷へ出向き、女主人に筋肉ストレッチングを施す。ストレッチングのコースが終了した後の、女主人との会話をきっかけに、青豆の友人、大塚環についてが回想を交えるようにして描かれる(“大塚環が死んだ前後のことを、青豆は今でもよく思い出す”)。
章題は、生前の大塚環についての回想的描写(P.296)の1部にあたる。
BOOK1第14章「(天吾)ほとんどの読者がこれまで目にしたこともないものごと」
小松と天吾は、いつもの新宿駅近くの喫茶店で待ち合わせた。「大げさなことは言いたくないけど、自分が生きているのか死んでいるのか、それもよくわからないような10日間」を過ごした天吾は、すでに『空気さなぎ』のリライト原稿を小松に引き渡した後。原稿の部分修正の依頼を、新人賞を受賞したら雑誌掲載までの間でいい、との条件で受ける。小松と別れた後、紀伊国屋書店で新刊書を買うなど、リラックスした様子の天吾だが“その夜はなぜか読書に神経を集中することができなかった”。母親のこと、父親のことなどが回想的描写も交えて語られ、小学校5年生の時に、NHK受信料の集金に同行することを止めたいと父に告げた天吾が、父と決定的に仲たがいしたことなども描かれる。
二つの月(二つめの月)
ふかえりによる『空気さなぎ』の物語内で、「リトル・ピープルが空気さなぎを作り上げたとき、月が二つになる」。主人公の少女が空を見上げると、月が二つ浮かんでいる様子がみえる。
BOOK1第14章で、小松は天吾がいったん引き渡したリライト原稿について、二つの月の描写を詳細化するよう指示。天吾も指示を受け入れる。
  • BOOK1第15章の終盤、青豆は自室のベランダから見上げる夜空に、2つの月が並んでいる光景に気付く。
BOOK1第15章「(青豆)気球に碇をつけるみたいにしっかりと」
BOOK1第15章は、青豆の日常的な食生活など生活習慣についての記述から入り、幼少時代の回想的な描写に移り、柳屋敷の老婦人とのつきあいの回想的な記述に移る。“クラブから戻ってきて、食事の用意をしているとき”に、あゆみから電話が入り、翌々日に食事でもしないかと誘われる。あゆみに対する“自然な好意”を感じた青豆は、知り合いのレストランにあゆみを伴ってでかけることにする。
第15章の終盤、青豆は自室のベランダから見上げる夜空に、2つの月が並んでいる光景に気付く。
“空には月が二つ浮かんでいた。小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣にもうひとつ、別の月があった。見慣れない形の月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。それが彼女の視野の捉えたものだった。”。青豆は二つの月について“私の頭がどうかしているに違いない”と思う。
章題は、青豆が老婦人から、はじめての殺人の報酬を受け取るときの回想的描写で、老婦人が語ったセリフ(P.330)からの抜粋にあたっている。
青豆が好きになった男性
BOOK1第15章で、「男に興味がなかったってこと?」と尋ねるあゆみに、青豆は「好きになった人は一人だけいる」と、10歳の時に好きになった小学校の同学年だった男子のことを語る。相手の居所を探さないのか? と、問うあゆみに、青豆は「私が求めているのは、ある日どこかで偶然彼と出会うこと」とも、語る。
  • BOOK1第23章で、青豆と食事を共にするあゆみは、青豆が好きになった男のことを調べてあげようか、と持ちかけるが、青豆は「探さないで。お願い。」と、応じる。
BOOK1第16章「(天吾)気に入ってもらえてとても楽しい」
『空気さなぎ』リライト稿を引き渡した後の天吾に“凪のように平穏な日々”が訪れていた。自作小説を書こうとする天吾は、自分の内に新たな創作の源泉のようなものを感じる。5月に入ったある日、天吾は久しぶりの小松からの電話で、『空気さなぎ』の新人文芸賞受賞と、5月16日に新橋のホテルで授賞式と記者会見がおこなわれる予定を聞かされる。そして、ふかえりに会い「記者会見の傾向と対策」を指導するよう依頼される。渋々ながら「できるだけのことはやってみましょう。うまくいくかどうか保障はできませんが」と応じる天吾は、2日後の夕方、新宿の喫茶店でふかえりと会う。
章題に近似の表現は、新宿の喫茶店でふかえりと会った天吾が、リライト稿を気に入ったかどうか尋ねるやりとりの内にみられる。
BOOK1第17章「(青豆)私たちが幸福になろうが不幸になろうが」
BOOK1第17章は、月が2つあると気づいた青豆が“私の頭はどうかしていいるに違いない”と思った第15章末尾に続く時制から、描きだされる。明けた日、広尾のスポ−ツ・クラブで麻布の老婦人からのメッセージを受け取る青豆は、タマルと連絡してスケジュールを調整。翌日、午後4時頃、柳屋敷に出向くと、トレーニングをコーチし、老婦人と夕食も共にする。この間、青豆が老婦人から暗殺を請け負うようになった経緯の回想的描写が織り交ぜられ、暗殺ターゲットが常習的にDVを反復する男たちであることも記される。夕食後、老婦人は青豆に「無理をお願いしないわけにはいかない」作業(暗殺)について切り出す。柳屋敷に隣接するセーフハウスに案内された青豆は、そこで10歳の少女、つばさに引き合わされる。
章題は、柳屋敷でのトレーニングの休憩時に、老婦人が青豆に語った言葉(P.385)からの抜粋にあたっている。
麻布のセーフハウス
DV被害者などの女性を保護するためのセーフハウスで、麻布の柳屋敷の敷地に隣接した土地で営まれている。柳屋敷の女主人がその資産で運営。
BOOK1第17章で、青豆と女主人の会話にセーフハウスの様子が話題が上るが、会話から青豆は以前からハウスの存在は知っていた、と思われる(第7章でのタマルとの会話にも傍証がある)。同じ章の終盤、老婦人に伴われた青豆は、セーフハウスを訪問。ハウスに保護されている10歳の少女、つばさに引き合わされる。訪問の描写からは、青豆がセーフハウスの敷地に立ち入るのは初めてのこと、と思われる。
つばさ
BOOK1第17章で、奇数章の物語に登場する10歳の少女。麻布の柳屋敷に隣接しているセーフハウスに、相談所から「6週間前」に送られてきた。性的暴行の被害者で、17章の物語内の今でも、ほとんど口をきかない。
BOOK1第17章の末尾で、青豆と柳屋敷の女主人の会話を横で聞いていたつばさは「リトル・ピープル」という言葉を差し挟む。これは奇数章での「リトル・ピープル」初めての言及になる。
BOOK1第18章「(天吾)もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」
第18章は“記者会見のあと小松が電話をかけてきて、すべては支障なく円滑に運んだと言った。”と、書き出される。冒頭部分は、5月16日になる。ふかえり名義の受賞作が掲載された文芸誌は売り切れになり、単行本が緊急刊行されることになる。天吾は“単行本の出版予定日の四日前”にふかえりからの電話を受け、会う約束をする。翌日、天吾が、約束の4時に新宿の喫茶店に行くと、ふかえりを伴った先生(戎野隆之)が待っている。「あらためてお礼をしなくては」と言う先生に、天吾はふかえりの個人的な事情について質問。先生は、天吾に対し『空気さなぎ』出版に積極的に関与する思惑が、ふかえりの両親の消息を探るため、メディアを誘導してさきがけに揺さぶりをかけることである、と遠まわしに認め、宗教法人になっている「さきがけ」のことも語る。所用がある先生(戎野)が先に去った後、ふかえりは「あなたのところにとめてもらう」と天吾に頼む。
章題は、新宿の喫茶店で先生と天吾が交わす、さきがけとリトル・ピープルについての会話の内、先生のセリフ(P.422)の抜粋にあたっている。
BOOK1第19章「(青豆)秘密を分かち合う女たち」
BOOK1第19章は、第17章末尾に続き、老婦人に伴われセーフハウスを訪れた青豆が、つばさと3人でいる様子から導入される。性的暴行を受けたと診断されているつばさの素性を問う青豆に、老婦人は、あるカルト集団で、つばさは両親が望んでセックスを強いられた、と語る。青豆は“同じことが自分の身に起こっていたとしてもおかしくはなかったんだ”と、思う。前後では、幼少時、青豆とその家族が属していた宗教教団が「証人会」であることが、明示的確定的に語られる。老婦人は、青豆の質問に、つばさが属していたカルト集団が「さきがけ」であり、世間ではさほど知られていないが、さきがけにはリーダーが1人いることを語る。そのリーダーが宗教祭儀の体裁で信徒の少女たちにレイプを強要、つばさもその被害者だとも。第17章で老婦人が「無理をお願いしないわけにはいかない」と言ったのが、さきがけリーダーの暗殺のことと理解する青豆は「どうやら難しい仕事になりそうですね」と語る。
第19章はセーフハウスと柳屋敷を後に、自宅に戻る青豆の様子を描いた描写を挟み、つばさの部屋で、つばさと共にいる老婦人が、不自然とも思える様子で深い眠りについている描写に移る。このシーンで、眠っているつばさの口から姿を現すリトル・ピープルたちは、つばさの部屋で空気さなぎを紡いでいく。第19章最後の一文は、“頭上では二つの月が申し合わせたように、世界を奇妙な光で照らしていた。”。
章題は、帰宅途中の青豆が、セーフハウスを去り際に観た情景の印象(P.442)。その情景は、セーフハウスに保護された女性たちが“小声でひそひそと話し合っていた”様子。
BOOK1第20章「(天吾)気の毒なギリヤーク人」
BOOK1第20章は、第18章末尾から断続。天吾のアパートで、ふかえりが眠っていて、天吾はソファーで寝ようとするが寝付けない。ワープロは寝室にあるので、台所のテーブルで書きかけの小説草稿を筆記しはじめる天吾。翌日未明の深夜2時頃、起きてきたふかえりは、「ホンをよんでほしい」と天吾に頼み、天吾は“先週読み終えたばかり”だったアントン・チェーホフの『サハリン島』を読み聞かせることにする。天吾が明けた日の8時半に目を覚ますと、「ギリヤークじんは今どうしているのか。うちにかえる」とだけメモした書きおきが残され、ふかえりは姿を消している。
章題は、天吾が読み聞かせる『サハリン島』に、ふかえりが感想を差し挟んだセリフに一致(P.466)。
BOOK1第21章「(青豆)どれほど遠いところに行こうと試みても」
BOOK1第21章で、青豆は区立図書館に行き“前と同じ手順を踏んで(第9章のことのはず)”過去の新聞を閲覧、あけぼの壊滅事件について、再度調べる。さきがけの本部が山梨県の山中にあると聞き、同じ山梨山中で起きた銃撃戦のことが気になったのだった。関連記事も読んだ青豆は、あけぼのとさきがけ、タカシマ塾の関係を知る。青豆は、銃撃戦の直後、すでに宗教法人化していたさきがけが、当時すでにあけぼのとの関係はなかった旨、声明を出したこと、自分たちの本部に警察の立ち入り調査を受け入れ、報道関係者を招待、世間の嫌疑を払拭したことを知る。しかし、青豆は“そんなに簡単なことじゃない”と、思う。青豆はあゆみに電話し、さきがけ内部の組織的な少女レイプの疑いを匂わせると、できる範囲でさきがけの情報を調べ教えてくれるよう頼む。3日後電話してきたあゆみは、さきがけ信徒の児童に不登校の子供が少なくないことなど「あまり一般には知られていない」話を青豆に教える。
章題は、子供時代の証人会経験との関わりを絶とうとしてきた自分についての、青豆の考えを記した部分(P.485)からの抜粋にあたる。
BOOK1第22章「(天吾)時間がいびつなかたちをとって進みえること」
BOOK1第22章は、冒頭天吾が、“時間と空間の可能性の概念。”について思索するセクションから導入される。思索は「天吾の最初の記憶」を巡るものを経て、年上のガールフレンド(不倫の相手)との記憶に移る。4番目のセクションで、『空気さなぎ』の単行本が刊行されてから3週間以上が過ぎていることが明かされ、単行本がベストセラーになっていることも記される。『空気さなぎが』文芸書ベストセラーの1位になって2週間と数日後(単行本刊行からひと月ほどが過ぎようとする頃にあたる)の深夜、小松からの電話を受けた天吾は、ふかえりとの連絡がとれなくなっていることを伝えられる。翌日、天吾は先生の家に電話をかけてみるが不通。知らない間に、電話番号が変えられたのかもしれない。天吾は、落ち着かない気持ちのまま普段の生活を続け、自作の長編小説執筆も続けていった。そんな天吾にふかえりが連絡をとってきたのは、“『空気さなぎ』がベストセラー・リストに腰を据えたまま六週目を迎えた木曜日のことだった。”。
章題は、“時間と空間の可能性の概念。”についての天吾の思索を記したセクションからの抜粋にあたる(P.490)。
BOOK1第23章「(青豆)これは何かの始まりに過ぎない」
BOOK1第23章は、6月末の金曜日、青豆とあゆみがペアで六本木から赤坂にかけてボーイ・ハントを試みたが、首尾不調だった様子から導入される。2人が、深夜営業中のレストランで軽食をとる間、あけみは青豆に、さきがけについての細かな情報を語る。あるいは、教団内のレイプ疑惑がきっかけだろうか、あゆみは、幼少時に兄と叔父から、別々に性的虐待を受けたことがある、と身の上話を青豆に聞かせる。2日後の夜、自宅でタマルからの電話を受けた青豆は、翌日柳屋敷を訪れるスケジュールを了承。ついでのようにして、タマルが飼っていたドイツ・シェパードが「破裂でもしたように、内蔵が派手に飛び散っていた」異様な姿で死んでいたことを聞かされる。
章題は、番犬の死を「気に食わない」と評するタマルのセリフ(P.530)からの抜粋にあたる。
BOOK1第24章「(天吾)ここではない世界であることの意味はどこにあるのだろう」
BOOK1第24章では、“梅雨が終わる気配はまるで見えなかった。”雨の木曜日、天吾が、ふかえりの手書きで「天吾」とだけ宛名書きされた茶封筒を郵便受けに挿しこまれた状態で見つける描写から導入。封筒に収められているカセットテープには、ふかえりが天吾にあてたメッセージが録音されている。内容は、行方不明と思われているふかえりが、今のところ危険の無い場所に身を隠している、との連絡だった。先生(戎野隆之)の考えらしいが、録音されたふかえりの言葉ではよくはわからない。ふかえりは、むしろ「リトル・ピープルのことをジにしたことでリトル・ピープルははらをたてているかもしれない」と、リトル・ピープルへの注意を天吾にうながしている印象が強い。同じ日の夜、小松からの電話を受けた天吾は、先生(戎野)の捜索願いを受けた警察が、ふかえりの捜査を公式に始めた、と伝えられる。
おそらく、翌日の金曜日、天吾の部屋を訪れる年上のガールフレンドは、天吾が書きかけている小説について話すよう仕向ける。直前に彼女を傷つけた埋め合わせとして、渋々天吾が語る小説の構想は、『空気さなぎ』の内容に触発された、2つの月がある世界の物語だった。
章題は、天吾が書きかけている、ここではない世界(二つの月のある世界)の物語について、ガールフレンドが天吾に問いかけるセリフ(P.552)の一部に近似。

メモ

麻布のセーフハウス
  • BOOK1第17章の末尾から、奇数章で描写される「麻布のセーフハウス」は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』以降、村上春樹の長編作品で繰り返し描かれている、静謐な生活の空間のヴァリアントと思える。
    だとすれば、「ある種の狂気の中にいる」老婦人(BOOK1第17章)によって維持運営去れているセーフハウスの含意は、「静謐な生活の空間」の新しい相を描出していると言えるだろう。

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